VV(薇薇)の母の名前は朱韺。1885年に北京で生まれた。
彼女は漢族の出身で、父は清朝の高官だった。
朱韺は北京の大邸宅で育ち、音楽も学科も専門の教師に習っていたため学校に行ったことが無い。
しかし、どの学科も優秀だった。そして幼い頃から西洋音楽の才能があり、特にピアノは天才と呼ばれていた。
朱韺は、幼い頃からバイオリニストとして世界中を転々としていた。
なぜ得意だったピアノではなくバイオリンを選んだのか。理由は単純、『ピアノは持ち運べないから』であった。
朱韺には、コンサートで人の楽器を使うという考えが全く無かった。
朱韺は20歳からニューヨークに住んでいたが、25歳の時に、上海でコンサートを開くことになり、船で上海に渡って、数週間滞在していた。
このときVVの父バード(アッシュ三世)は22歳。この時彼は海軍将校であったので、白い軍服を着て上海の街を歩いていた。
(実は、バードの愛称は後に朱韺がつけたものなので、この時はアッシュまたはアッシュ三世と呼ばれていた)
バードは聖心路を歩いている時に、カフェで男子(20代のイケメン)とお茶をしている朱韺を見て一目惚れをする。
同席している男は無視して、朱韺に声をかける。
バード「美しい。あなたは僕の運命の人だ」
朱韺「おもしろいことをいうのね」
同席していた男にも構わず席につくバード。
男は突然のことにどうして良いか分からず、朱韺を見るが、朱韺は男にバイバイと手を振る。
男も納得して、肩をすくめて、朱韺に「お会いできて嬉しかったです」と言って、席を立ち去って行った。
バードは去る男に微笑んで軽く会釈。
朱韺(この男、軽快で楽しいわ。何を言い出して来るかしらね。ふふ)
バード「僕はアッシュ・ブラックウェル。上海ではちょっと有名でね。
僕を知らないものはいないよ。あなたの名前は?」
朱韺「朱韺。上海ではあなたほどは有名じゃないみたいね。
でも、後ろを見たら、私がいるわよ」
バードが後ろを振り返ると、
朱韺の巨大なポスターが描かれた看板がかけられている。
バード「あれは‥」
朱韺「音楽は聞かないの?」
それから3日間、バードは朱韺のコンサートに通い、
コンサートの前後は二人で過ごした。
朱韺はニューヨークへ帰るのを一週間延ばした。

朱韺は、次のニューヨークでのコンサートに間に合うぎりぎりの日まで
上海に滞在していた。
そして、朱韺がニューヨークへ帰る日まで、二人は常に一緒だった。
バードは朱韺の乗った船が出航するとき、朱韺にプロポーズをした。
朱韺は「いいわよ」とためらいなく答えたが、結婚してどこで暮らすとか、
どうやって生活するかなどの話は一切しなかった。
朱韺を乗せた船が出た後、バードは海軍に除隊の届けを出した。
軍は驚いたものの引き留めはしなかった。
バードは海軍では、表立った仕事は全くしていなかったため、
重要に思われていなかったためだ。
バードが海軍をやめたことについては、当主であったアッシュ二世を含め
誰も何も言わなかった。
ただ、若い使用人のマリア(後のアッシュ四世の母)だけが、
バードの心配をしていた。
軍隊を辞めたバードは朱韺を追ってニューヨークに行くが、
朱韺はすでにヨーロッパの演奏ツアーに出た後であった。
バードがイギリス、フランス、ドイツへと朱韺を追って行くが、
客船や列車で追いかけるので追い付くことはない。
また、朱韺の予定が何度も変更になるため、先回りすることも出来ない。
バードはあきらめて、ニューヨークの朱韺の自宅宛に
「いつまでも待っている」と手紙を送り、上海に戻ることにした。
上海に帰ったバードを慰めようと、マリアが寄り添う。
ただ、マリアは身分違いだと思っているので、見返りは要求しない。
バードも、この点、全く何も考えないで、マリアの好意に甘えてしまう。
一年後、バードはマリアの好意に甘えながら、深い仲になっていたが、
突然朱韺から「数ヵ月後に上海に立ち寄る」との手紙を受け取る。

手紙には、朱韺はコンサートのため、モスクワからシベリア鉄道に乗り、
数ヶ月をかけて満州、北京、南京、上海、神戸をツアーで回るという。
上海には一週間だけ滞在し、船で神戸に発つと書いてあった。
バードにとっては、朱韺に会えるこの一週間が全てだ。
他のことは全く頭に無くなる。
そして朱韺が上海に到着する日には、港に迎えに行き、
コンサートのある日も無い日も二人は共に過ごし、
コンサートの時はバードは会場で朱韺だけを見ていた。
明日が最後という日、朱韺はバードに「明日、結婚しましょう。
朝9時に聖マリア教会で待ってるわ」
バード「朱韺、君は結婚したら、僕と一緒にいてくれるのか?」
朱韺「無理よ。私はツアー(旅)をしないと」
バード「じゃあ、僕が一緒についていってもいいか?」
朱韺「無理よ、私はバイオリンより重いものは持って行けないもの」
バード「僕は君にとって、何なんだ?」
朱韺「あなたは私の実家にあるピアノと一緒よ。
大好きな私のピアノ。でも持って歩けないから家においてあるの。
あなたはそのピアノのように、私が帰ったら落ち着ける場所でいて欲しいの。
いつも、旅の終わりには、きっと、あなたの所に戻るから」
バード「ピアノは、弾く人がいないと、音が狂うというよ。
君がいないと僕も気が狂いそうになるよ」
朱韺「私の家のピアノは、私がいない間は、誰かが調律してくれている」
バード「君にはバイオリンのような男はいるのか?」
朱韺「(笑いながら)持ち歩ける男なんて、いるわけ無いでしょう」
朱韺は「じゃあ、明日教会で」と言ってホテルに帰る。
バードは、しばらく放心していたが、やがて重い腰を上げて家に帰る。
遅い帰宅だったが、マリアが待っていた。
マリアは本当に美しい娘だが、朱韺のような華はない。
バードはマリアを見ても心が行かない。
バード「朱韺に、明日結婚しようと言われた。聖マリア教会で…明日の朝9時に」
バードは、目の前に居るマリアと教会が同じ名前だとは気付かない。
マリア「おめでとうございます。直ぐに準備を致します。
急なので、お持ちの礼服でよろしいのですよね」
と準備に取りかかる。その後ろ姿を見守るバード。
陰からアッシュ二世がその様子をそっと見ている。
朝、礼服姿のバードを見送るマリア。
マリア「行ってらっしゃいませ」
バード「行ってくるよ。彼女を見送ったら、夕方には戻るから」
マリア「戻っておいでになるんですか」
バードは不思議そうに「戻るよ。当然だろう」
マリアは笑顔になり「行ってらっしゃいませ」とバードを送り出す。
紅江区の聖マリア教会で、牧師と新郎・新婦だけの結婚式を挙げ、二人で昼をすごし、朱韺を乗せて神戸に向けて出航する船を夕方に見送り、バードは家に帰る。
マリア「お帰りなさいませ」
バード「ただいま」上着をマリアに渡してそのまま、部屋に入るバード。
マリアはついて行く。
自分の部屋で椅子に座り、顔を伏せて泣き出すバード。
その肩を抱きしめながらマリアは
「おぼっちゃまは本当に純粋な方ですね」と呟く。
半年過ぎた頃、朱韺からバードに手紙が来て「あなたの子供が生まれる。
生まれる前に会いに来て」とのこと。
ちょうどそのころ、マリアも妊娠していたが、
バードは朱韺のことで頭がいっぱいで、
ニューヨークで朱韺に会えることしか考えていない。
マリア「朱韺様が出産のときは、人手が要るのではありませんか?
私がニューヨークにお供させて頂いてもよろしいでしょうか」
バード「その頃はお前も臨月だろう」
マリア「他に召使もいるでしょうが、でも私が、ぜひお世話をしたいのです」
バードとマリア、それに他の召使数人は船でニューヨークへ向かう。
マリアは船でバードと一緒にいるこの時が、今までで一番幸せだと思った。
朱韺は臨月までコンサートを開催し、
ニューヨーク・ブラックウェル家で女の子を出産した。
その同日にマリアも陣痛が始まり、マリアは男の子を産んだ。
朱韺が産んだ女の子では、色白で、紫かと思われるような黒い髪。
マリアが産んだ男の子は、ブラックウェル家の血統らしく黒い巻毛。
朱韺は生まれた女の子にヴィヴィアンと名前をつけ、VV(薇薇)と呼んだ。
(VVはヴィヴィアンの愛称。薇薇はその中国語)
マリアは、朱韺が産んだ女の子に母乳を飲ませ、かいがいしく世話をした。
一方、マリアが産んだ男の子はというと…、
バードが家の中で朱韺を見つけると、楽譜を読みながら小さいアッシュを抱いている。
バード「その子は…」
朱韺「この子ね、メイドがあやしてもずっと泣いてたんだけど、
私が抱くと泣き止むのよ。あなたに似たんじゃない?」
朱韺はマリアが産んだ男の子を“小さいアッシュ”と呼んだので、
男の子はアッシュ四世となった。(この時はまだカーフェイの渾名はなかった)
産後1ヶ月もすると、朱韺は次のツアーに出ることになった。
朱韺「次に会うときは上海で。そうしたらまた、小さいアッシュにも会えるわね」と、メイドが抱いた小さいアッシュの頬に触る。
微笑む小さいアッシュ。
マリアはVVを抱き「朱韺様、お嬢様にもご挨拶を」と言うと、
朱韺「じゃあ、上海でね。薇薇ちゃん」
と、小さいアッシュに挨拶したのとさほど変わらない口調で頬に触り、
朱韺「じゃあ、行くわね」と言って旅立った。
マリア「VV様を残して、寂しいでしょうに」
バード「残された俺が寂しい」
(バードは己の愚かさに全く気づかない。)
一年後、上海ブラックウェル家に“帰ってきた”朱韺、バードが出迎える。
バード「お帰り、朱韺」
朱韺はバードの父であるアッシュ二世に会うと、思わず抱き締め、
「お父様、初めまして。朱韺です。よろしくお願いします(笑顔)」
二世「ああ、うむ。よろしく頼む」
マリア「朱韺様、VV様ですよ」とVVを連れてくる。
朱韺「あー、薇薇ちゃん、こんにちは、ママだよ~」
そして周りを見回し「小さいアッシュは?」と聞く。
メイド「アッシュ四世様はこちらです」と小さいアッシュを見せると、
朱韺は四世を抱き上げ、
朱韺「もう一人のママだよ」と頬擦りをした。
マリアがVVを連れてVVの子供部屋に戻ったとき、なぜか涙がこぼれたが、
それが何の涙かはマリアにも分からなかった。
小さいアッシュは別のメイドが抱いて、小さいアッシュの子供部屋に連れて行った。
【s00113】