第37話 奇跡1 紡績工場の奇跡

1928年、上海。 張文魁(チャン・ウェンクイ)は、46歳。祖父の代から三代続く紡績工場を経営していた。

第一次世界大戦中(1914〜1918年)、欧米からの綿製品輸入が途絶えたことで上海の綿紡績業は空前の大ブームを迎えた。しかし1920年代半ば以降、欧米製品の輸出が再開されると状況は一変する。過剰な設備投資が裏目に出て、綿糸や綿布の供給過剰と価格暴落が常態化した。文魁の工場も1928年頃から膨大な在庫を抱え、深刻な資金繰りに苦しんでいた。

文魁(確かに、先のヨーロッパ大戦中の過剰投資は見通しが甘かった。だが、うちが傾いた一番の原因はそれだけではない)

文魁は苦い思いを噛みしめていた。
当時、世界的に金本位制への移行が進む中、1920年代後半に入ると世界市場で銀価格が急落していた。中国は銀本位制を採用していたため、その直撃を受けたのだ。アメリカなどから原綿を輸入するコストは銀安・外貨高で跳ね上がり、さらに為替の乱高下によって金融機関(銭荘や銀行)の資金は実体経済から引き揚げられ、激しい為替投機へと流れていった。

そこへ追い打ちをかけたのが、潤沢な資金と最新設備を誇る日本資本(日資紡)や欧米資本の参入だった。特に日本勢は上海市場の4割以上のシェアを握り、激しい価格破壊を仕掛けてきた。規模の小さな中国の民族資本は耐えきれず、次々と倒産に追い込まれていた。

文魁(債権の支払いを少し先に延ばせれば、回復の見込みはあるのに……)
文魁は駆けずり回って金策を続けたが、知っているすべての金融機関や資本家に融資を断られた。

そしてこの日、工場はついに二回目の不渡りを出した。 事務所には怒号を上げる債権者たちが押し寄せていた。

債権者1「社長を出せ! 社長はどこへ行った!」
社員「申し訳ございません、社長は金策に出ておりまして、間もなく戻るかと……」
社員が頭を下げて必死に対応するが、債権者の興奮は収まらない。
債権者2「ええい、うるさい! だいたいお前たちがたるんでいるから会社が傾いたんだろうが! だったらお前が金を返せ。給料をもらっているんだろう、そこから出せ!」
社員「そ、そんな……!」

そこへ、疲弊しきった様子の文魁が戻ってきた。
文魁「社員に落ち度はありません! 悪いのは経営者である私です」
債権者たちが一斉に文魁を取り囲む。
「だったら借金をどうするんだ! 今日返せないなら、この工場の機械も土地も全部処分して売り払うぞ!」
怒声の前に、文魁は返す言葉もなく立ち尽くすしかなかった。

その時、荒れ狂う債権者たちの後ろから、ふたりの人物が静かに歩み出てきた。
仕立ての良いスーツを見事に着こなした、二十歳そこそこの若い女性たちだった。だが、上海の経済に通じた者であれば、その顔を見て息をのんだはずだ。ひとりは名門ブラックウェル家の出身で、新進気鋭の幸福商会を率いるVV(薇薇)。もうひとりは、若くして弁護士と会計士の資格を併せ持つマナである。

VV「この会社に対する債権を、額面の50%で買い取らせていただきます。ご希望の債権者の方はいらっしゃいますか?」
凛としたVVの声が事務所に響いた。

債権者たちがどよめく。
債権者1「50%だと? 足元を見やがって……! だが、ここで粘っても一文銭にもならんかもしれん。分かった、うちの分を買ってくれ!」
債権者2「うちもだ! ただし即金で頼むぞ!」
VV「承知いたしました。ご希望の方はあちらの部屋へどうぞ」
マナが手際よく債権者たちを別室へと誘導していく。

事務所は波が引くように静かになった。
文魁は「助かりました……。ありがとうございました」と深く頭を下げる。
そして文魁は思い詰めた表情で、
「あなたにこのようなお願いをするのは厚かましいのですが……もしこの会社を買収し、私を解任されるとしても、どうか社員たちだけは継続して雇っていただけないでしょうか」

VVは文魁をじっと見つめ、静かに答えた。
「承知いたしました」
「本当ですか……! 感謝いたします」
「ただし、条件があります」
VVの言葉に、文魁は思わず唾をのみ込んだ。

VV「条件とは――あなたがこのまま社長を続けることです。この工場は、あなた以外の方では意味がありません」

想定外の言葉に、文魁は目を見開いた。
「なぜ……なぜそうまでして、この工場を助けてくださるのですか?」

VVはふっと表情を緩め、柔らかい微笑みを浮かべた。
「私、小さな頃によくこの工場へ遊びに来ていたんです。『五・三〇事件』の前から。あなたとお父様が、従業員の方々をとても大切にされていたのをずっと覚えていました」
文魁「あ……あの時の、小さな女の子……!」

VV「はい。ですから社長、ぜひ幸福商会の事業に協力してください」とにっこりとほほ笑んだ。

【2026-09-28/260506-1,260605-3(1)】

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