エリトリアからきたサバ

1929年の上海華影楼の裏口。
昼下がりの薄い光の中、私服姿のイタリア軍エージェントが、細身で背の高い褐色の少女を連れて現れる。

少女は19歳。
深い褐色の肌は赤銅色のように沈む光を帯び、動きは静かだが、止まるたびに“刃のようなキレ”があった。

エージェントはミーナに向かって短く告げる。
「有名なサロンからの推薦だ」

ミーナはため息をつき、
「……しょうがないわね。とりあえず中へ」
と、面倒事を察した顔で少女を迎え入れた。

イタリア軍は、日本側の軍事情報──特に中国国民政府への作戦情報──を探るため、
日本軍人がよく訪れる華影楼へスパイを送り込んだのだ。
エージェントは満足げに心の中でつぶやく。
(うまくいった。誰も気づかなかったぞ)

しかし、ミーナの横でヒービーは目を輝かせ、仲間が来たと喜んでいる。
MG(マリゴールド)は少女を見て言う。
「……あの子、あれだよね」
VV(薇薇)は肩をすくめる。
「今度はイタリア軍かぁ」
華影楼の面々は、少女がイタリア軍の手によって連れてこられたことに気づいていた。

エージェントが連れてきたのは、イタリアの植民地エリトリア出身の少女──
Saba Melkam(サバ・メルカム)。
名の意味は “夜明けの幸福”。

あどけなさの残る細身の体つき。
直線的で彫刻のような顔立ち。
赤銅色の硬質な褐色の肌。
背が高く、動きはしなやかで鋭い。
多くを語らず、静かに立つだけで存在感があった。
その沈黙は、逆に彼女の強さを際立たせていた。

ミーナは彼女に言う。
「あなた、ちょっと歌ってみて」
低めで柔らかい声質。
長い手足、静かで滑らかな動き。
舞台に立つと、一瞬で観客の視線を奪う。

ミーナは即座に判断した。
「この子はうちで預かる。うちで雇うわ」

イタリア軍が彼女につけたコードネームは アウローラ(暁/夜明け)。
暁を意味するその名は、
彼女にとって自由ではなく“従属の印”だった。

アウローラも、メルカムも──
どちらも自分の名前だと思ったことはない。
ただ、歌い踊るときだけ、
彼女の身体は故郷の風を思い出した。

サバは貧しいムスリムの家に生まれた。
祈りの言葉は覚えているが、それより先に“生き延びる術”を覚えなければならなかった。

エトルリアからきたサバ

街で美しい容姿のサバに目を付けたイタリア軍は、彼女に歌と踊りを教え、スパイとして育てたのだ。

サバは華影楼の生活にすぐ馴染んだ。
他の歌手たちにも穏やかに接し、争うことはない。

上海の夏。
華影楼に入るなりVVが叫ぶ。
「暑っっ!」
MG「行儀悪い」
サバ「暑いわね」
VV「サバは暑くないの?」
サバ「暑いわ」
MG「サバの声は癒し系だから、暑さを感じさせないのよ」

宗教的な生活も柔らかい。
サバはハラールを重んじるが、
上海の街では厳格に通せないことも分かっている。
ラードを使った中華料理の店も拒まないし、
祈りはできる時にする。
酒・タバコはやらないが、他人の酒・タバコを止めたりしない。
ラマダンは基本的に守る。

サバは人に強制しないが、されるのも嫌い。
とにかく、人と争わず、静かで穏やかだった。

ある日、サバはVVに呟く。
「私は、自分が天国に行けるとは思っていない」
VVは即座に返す。
「サバくらい穏やかな人が天国に行けなかったら、誰が行けるのさ」
しかしサバは静かに言う。
「私は汚れているの。だから、決して救われることはないの」

歌い終えて楽屋に戻って「喉が渇いた」と水を飲むサバに、
VVとMGが声をかける。
VV「ねえサバ、スパイをやめて私たちの仲間にならない?」
サバ「ぶっ、ごほっ……! え、気付いてたの?」
MG「サバにはスパイは似合わないわ。あなたの魅力は歌と踊りよ」
VV「あなたがスパイをやめても生きていける。危害も受けないわ」

VVは共同租界のイタリア軍スパイの組織へ向かい、交渉する。
VV「サバをもらいたい」
イタリア軍「対価は?」
「日本軍の情報なら私が流すわ」
「君なら問題ない。素人のサバより頼りになる」

VVは戻って言う。
「交渉してきたわ。以後は私が仕事をするって言っておいた」
サバ「それだけなの?」
VV「そう、それだけ」
VVは笑って付け加える。
「日本軍の夕食メニューでも流しておけば十分よ」
サバ「日本軍の夕食メニューがわかるの?」
VV「そりゃ、幸福商会から納品してるからね。
つまり、私は食材の量から日本軍の兵力や台所事情を把握しているということよ。
私がその気になればいくらでも情報は拾えるわ」

サバのメロウなジャズが人気を集め始めた頃、
アメリカから本場のジャズバンドが乗り込んできた。
「ジャズ対決がしたい」
「私たちが負けるわけないわ」
ミーナは彼らの顔を見て言う。
「じゃあ、うちはサバに歌ってもらおうかしら」

アメリカの派手な演奏に対し、
サバは一歩も引かず、静かなメロウジャズで応える。
最後に「蝶々夫人のジャズアレンジ」をイタリア語で歌い上げ、
「楽しかったわ。ありがとう」と微笑む。
アメリカバンドは悔しげに言う。
「こんなのジャズじゃないわ」

サバの圧倒的な歌に、MGは肩を落とす。
「私、引退しようかしら」
VV「気にしないで踊ろうよ!楽しいじゃない」
MG「そっか、楽しけりゃいいよね」
会場は大盛り上がりとなった。

数日後、VVはサバに尋ねる。
「サバが前に言ってた“天国に行けない理由”って何?」
サバは静かに答える。
「私、初恋の男の子とキスしたことがあるの。だから天国には行けないの」

VVは目を丸くする。
「それって……いつの時代の話なの?」
サバ「私の国では当たり前のことなの」
VVは笑う。
「じゃあ、サバは上海に来てよかったね。サバは絶対天国に行けるよ。天使の歌声だもの」
サバ「そうなの?」

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