1900〜1930年のエリトリア

イタリア領エリトリアの形成と変貌

1900年から1930年にかけてのエリトリアは、イタリアの植民地支配が確立し、近代化が進む一方で、ファシズム政権の成立に伴い軍事拠点としての性格を強めていく時期であった。鉄道・都市開発などのインフラ整備が進展し、アスマラは近代都市へと変貌したが、その裏では人種隔離政策や軍事利用が強化され、植民地としての矛盾を抱えていた。

1. 植民地成立までの経緯(〜1900年)

●紅海沿岸への進出
イタリアの進出は1869年、スエズ運河開通と同年に海運会社が港町アッサブを購入したことに始まる。後にイタリア政府がこれを買収し、植民地化の足がかりとした。

●マッサワ占領と植民地の成立
1885年、イタリア軍は主要港マッサワを占領し、内陸へ勢力を拡大した。1890年、国王ウンベルト1世の布告により、植民地名「エリトリア」が正式に制定された。

●アドワの戦いと方針転換
1896年、イタリアはエチオピア征服を試みたがアドワの戦いで敗北し、エチオピアの主権を承認することとなった。この結果、イタリアはエリトリアの植民地経営に注力する方針へ転換した。

2.近代化の推進(1900〜1910年代)

●首都アスマラへの移転
1900年、イタリアは首都をマッサワからアスマラへ移した。高地の気候は行政運営に適しており、アスマラは植民地の中心として整備が進められた。

●インフラ整備
エリトリア鉄道の建設が本格化し、マッサワ—アスマラ—ケレン—バルカへと路線が延伸された。道路網・電信網も整備され、植民地としては高度なインフラが形成された。

●アスマラの都市開発
アスマラはアール・デコや未来派建築が並ぶ近代都市へと変貌し、「リトル・ローマ」と称される都市景観が形成された。

●農業開発と入植政策
高地のアジ・ウグリ(現アディ・クアラ)などで入植が進められ、コーヒー・綿花などの商品作物の栽培や近代的畜産業が導入された。

3.ファシズム政権下の変化(1920年代)

●人種隔離政策の強化
1922年のムッソリーニ政権成立後、植民地統治はより抑圧的なものとなった。公共空間での隔離、職業制限など、人種隔離政策が制度化され、植民地支配の差別構造が強化された。

●軍事拠点化
ムッソリーニはエチオピア再征服を構想し、エリトリアはその前線基地として軍事物資が集中する要塞化が進んだ。

●アスカリの徴募
多くのエリトリア人男性が植民地軍「アスカリ」として徴募され、リビアでの反乱鎮圧や後のエチオピア侵攻に動員された。

まとめ

1930年頃のエリトリアは、鉄道・港湾・都市開発など高度なインフラを備えた地域となっていた。しかし、その発展は植民地支配の枠組みの中で進められたものであり、現地住民は市民権を奪われ、軍事利用のための労働力・兵力として扱われるという矛盾を抱えていた。
この時期のエリトリアは、近代化と抑圧が併存する植民地の典型的な姿を示している。

付記:名称混同についての注意

本ページで扱う「エリトリア(Eritrea)」は、紅海沿岸に位置するアフリカの地域であり、イタリアの植民地支配を受けた近代史を持つ。一方、「エトルリア(Etruria)」は古代イタリア半島に存在した文明であり、時代・地域・文化的背景がまったく異なる。両者は名称が類似しているため、資料整理や物語設定の際に混同が生じやすい。(自戒の意味を込めて)

【kisono1930における設定】

【本編0016】 エリトリアからきたサバ
華影楼の歌手で元イタリア軍スパイのサバがエリトリア出身である。