1900年から1930年にかけてのザンジバルは、オマーン帝国期の奴隷貿易拠点としての性格を脱し、イギリス保護領としての植民地統治体制が本格的に確立される時期であった。
島の経済構造は丁子(クローブ)を中心とする単一作物依存へと再編され、政治・社会の諸制度はイギリスの行政原理に沿って再構築された。
本項では、この30年間の主要な変化を、前史を含めて整理する。
■ 前史(1890〜1900)保護領化と旧体制の解体
1900年の状況を理解するためには、19世紀末に生じた一連の政治的転換を確認する必要がある。
1890年:ヘルゴランド=ザンジバル条約
イギリスとドイツによる勢力圏分割の結果、ザンジバルは正式にイギリス保護領とされた。これにより、オマーン帝国の影響力は急速に後退した。
1896年:イギリス・ザンジバル戦争
イギリスの意向に反するスルタンの即位を契機として、イギリス艦隊が宮殿を砲撃し、戦闘は38分で終結した。以後、スルタン権力は名目的な存在へと縮減した。
1897年:奴隷制の法的廃止
クローブ農園を支えてきた奴隷制度が廃止され、労働供給構造は大きく変動した。1900年代初頭は、この制度転換への対応期であった。
1.スルタン統治の形骸化と植民地行政の確立(1900〜1913)
20世紀初頭、イギリスは財政・司法制度の近代化を進め、スルタンの統治権限を段階的に制限した。
1911年にはハリーファ・ビン・ハルーブ(Khalifa bin Harub)が即位し、長期在位の基盤が形成された。
決定的な転換点は 1913年の管轄移管 である。
ザンジバルはイギリス外務省の所管から植民地省へ移され、総領事に代わって英国駐在官(British Resident)が派遣された。
これにより、政治的実権は完全にイギリス側へ集中した。
2.第一次世界大戦と東アフリカ戦域(1914〜1918)
ザンジバルは東アフリカ沿岸におけるイギリスの戦略拠点であったため、第一次世界大戦の影響を直接受けた。
1914年8月、イギリスの参戦に伴いザンジバルもドイツへ宣戦布告した。
同年9月には、ザンジバル港に停泊中のイギリス防護巡洋艦「ペガサス」がドイツ巡洋艦「ケーニヒスベルク」に奇襲され沈没する事件が発生した。
戦争期間中、ザンジバルはドイツ領東アフリカ(現タンザニア本土)への作戦行動を支える後方補給拠点として機能した。
3.クローブ経済の隆盛と社会構造の再編(1920年代)
大戦終結後、クローブ価格の高騰によりザンジバルは経済的最盛期を迎えた。島は世界最大のクローブ産地として莫大な収益を得た。
しかし、社会構造は変容していた。奴隷制廃止後、アラブ系大農園主は労働力不足に直面し、没落する者が増加した。
一方で、本土から移住したアフリカ系労働者や、商業・金融を掌握するインド系移民(アジア系)が台頭し、島内の人口構成と経済権力の分布は大きく変化した。
4.植民地行政機構の制度化(1926)
1926年、イギリスは行政効率化と形式的な住民参加を目的として、立法評議会(LEGCO)および執行評議会(EXCO)を設置した。
しかし、その実態は以下の通りである。
議長職は英国駐在官が兼任し、重要決定権はイギリス側に集中した。
評議会にはアラブ系・インド系・ヨーロッパ系の代表が任命されたが、人口多数を占めるアフリカ系住民は制度的に排除された。
この制度は、植民地統治における人種・階層区分を行政構造として固定化する役割を果たした。
■ 総括:制度化された分断と後世への影響
1900年〜1930年のザンジバルは、外見上はクローブ貿易による繁栄を享受していたが、その背後ではイギリスによる統治機構の徹底的な制度化が進行していた。
特に、アラブ系・インド系・アフリカ系という人種・階層区分を行政制度として組み込んだことは、社会的分断を構造化する結果となり、1960年代の民族対立および「ザンジバル革命」へと連なる重要な伏線となった。
【kisono1930における設定】
ナディア・ブルウ・バハリがザンジバル出身である。