1900年〜1930年の東南アジア

1900年から1930年にかけての東南アジアは、「植民地支配の完成と洗練」から「民族主義の本格的覚醒」へと向かう転換期である。

■ 1900年へ至る前史:列強による分割の完成

19世紀後半、ヨーロッパ列強は東南アジアの囲い込みを急速に進め、1900年頃にはタイ(シャム)を除くほぼ全域が植民地化されていた。
イギリス:マレー半島(現マレーシア)・ビルマ(現ミャンマー)
フランス:ベトナム・ラオス・カンボジアを統合し「仏領インドシナ」
オランダ:ジャワ島を中心に「蘭領東インド(現インドネシア)」
アメリカ:1898年の米西戦争後、フィリピンを獲得
唯一独立を保ったタイは、ラーマ5世(チュラロンコン王)の近代化政策(チャクリー改革)により、英仏の緩衝地帯として主権を守り抜いた。

■ 1900〜1930年の東南アジア史の二つの波

この時代は、
⓵ 植民地経営の近代化(1900〜1910年代)
 1.植民地経済の深化:ゴムと錫の時代
 2.統治スタイルの変化:「アメとムチ」
⓶ ナショナリズムの爆発(1920年代〜)
 3.ナショナリズムの覚醒(1900〜1920年代)
 4.1930年:世界恐慌の直撃と反乱の頻発
の2段階(4つの過程)で理解できる。

1.植民地経済の深化:ゴムと錫の時代
20世紀初頭、欧米の自動車産業の発展により、東南アジアは世界的な資源供給基地へと変貌した。
・モノカルチャー経済の形成
 マレー半島の天然ゴム・錫、インドネシアの石油・砂糖、ベトナムの米など、特定の輸出資源に依存する構造が確立した。
・移民労働の流入
 プランテーションや鉱山の労働力として、中国(華僑)・インド(印僑)から大量の移民が流入。

これが現在の東南アジアの多民族社会の基盤となった。

2.統治スタイルの変化:「アメとムチ」
列強は武力だけでなく、現地人を行政に取り込む政策へと転換した。
・オランダの倫理政策(1901〜)
 教育・農業改善を掲げたが、実際には統治効率化が目的。
・アメリカのフィリピン統治
 公教育を大規模に整備し、英語教育を普及。

しかし、これらの政策は皮肉にも「西洋の学問を学び、植民地支配の矛盾に気づくエリート層」を生み出し、のちの独立運動の指導者となった。

3 ナショナリズムの覚醒(1900〜1920年代)
決定的な刺激となったのが 1905年の日露戦争での日本の勝利 である。
「有色人種が白人大国に勝利した」という事実は、東南アジアの知識人に強烈な衝撃を与えた。
・1904年:ファン・ボイ・チャウ(ベトナム)
 維新会を結成し、日本への留学運動「東遊(ドンズー)運動」を展開。
・1911年:サレカット・イスラーム(インドネシア)
 イスラーム商人団体から、数百万人規模の反植民地運動へ発展。
・1927年:インドネシア国民党(スカルノ)
 近代的な民族主義政党として登場。
・1920年代:ホー・チ・ミン(ベトナム)
 共産主義思想を取り入れつつ、独立運動を組織化。

4.1930年:世界恐慌の直撃と反乱の頻発
1929年の世界恐慌は、1930年に東南アジアへ深刻な影響を与えた。
・ゴム・米など輸出品の価格が暴落
・農民・労働者の生活が急速に悪化
・各地で武装蜂起が発生
  ベトナム:ゲティン・ソヴィエト(1930〜31)
  ビルマ:サヤー・サンの反乱(1930〜32)
列強は武力で鎮圧したが、ナショナリズムは後戻りできない段階に達し、1940年代の日本軍の進攻、そして戦後の本格的独立戦争へとつながっていく。

■ 総括

1900〜1930年は、欧米が整備した近代的インフラ・教育制度を、東南アジアの人々が「自国を取り戻すための武器」として学び、使いこなし始めた時代である。

【kisono1930における設定】

華影楼の主人ミーナ米娜(Mǐnà)がベンガルに近い架空の国の出身