1900〜1930年の中東

1900年〜1930年頃の中東は、現在のイラク、シリア、レバノン、パレスチナ、イスラエルといった近代国家の枠組みが形成され、現代まで続く紛争の火種がほぼすべて撒かれた「激動の30年間」である。
この時代を一言で言えば、「オスマン帝国の崩壊と、イギリス・フランスによる強引な分割」の歴史である。以下に、その流れを前提となる経緯から整理する。

1900年以前:中東を包んでいた巨大帝国

1900年以前、アラビア半島や現在のイラク、シリア、パレスチナなどの地域は、すべてオスマン帝国の領土であった。帝国内ではアラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒などが比較的緩やかに共存していた。
しかし19世紀後半になると帝国は衰退し、「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど弱体化した。これによりイギリス・フランスなどの列強が「帝国崩壊後の領土分割」を狙い始める。

1900〜1930年の歴史:激動のタイムライン

1908年 青年トルコ革命
オスマン帝国内で近代化を目指す軍人らが革命を起こした。しかし彼らが「トルコ民族中心主義」を進めたため、帝国内のアラブ人の反発を招き、アラブ民族主義が台頭する契機となった。
1914〜1918年 第一次世界大戦と三枚舌外交
オスマン帝国はドイツ側で参戦。イギリスは戦争を有利に進めるため、中東で矛盾する三つの約束を同時に結ぶ「三枚舌外交」を展開した。
1917〜1918年 サイクス・ピコ協定の暴露と帝国崩壊
ロシア革命により、英仏が中東を秘密裏に分割していた「サイクス・ピコ協定」が暴露され、アラブ人はイギリスに騙されていたことを知る。大戦終結とともにオスマン帝国は事実上崩壊した。
1920年 委任統治領の決定
サン・レモ会議により、中東はイギリスとフランスの委任統治下に置かれることが正式決定された。民族や宗教を無視した直線的な国境線が引かれ、現在のイラクやシリアの原型が作られた。
1923年 トルコ共和国の誕生
ムスタファ・ケマル(アタテュルク)率いる国民軍が抵抗運動を展開し、帝国の跡地に近代的なトルコ共和国を建国した。翌年にはカリフ制を廃止し、政教分離を進めた。

現代の火種となった「イギリスの三枚舌外交」

第一次世界大戦中、イギリスは以下の三つの矛盾する約束を同時に結んだ。
1 アラブ人への約束(フサイン・マクマホン書簡 / 1915年)
「オスマン帝国に反乱を起こしてくれれば、戦後にアラブ独立国家を認める」と約束。これを信じたアラブ人が反乱を起こした。
2 フランス・ロシアとの約束(サイクス・ピコ協定 / 1916年)
裏では「オスマン崩壊後、シリアはフランス、イラクはイギリスが支配する」という秘密協定を結んでいた。
3 ユダヤ人への約束(バルフォア宣言 / 1917年)
戦費調達やアメリカの支持を得るため、ユダヤ人財閥に対し「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を作ることを支持する」と宣言した。

1920年代:裏切りと人工的な国境線の誕生

戦後、イギリスとフランスはアラブ人との約束を破り、サイクス・ピコ協定を基盤に中東を分割した。
・フランス領:シリア、レバノン
・イギリス領:イラク、トランスヨルダン(現ヨルダン)、パレスチナ

民族・宗派の分布を無視した国境線が引かれたため、特にイラクでは「絶対に相容れない三つの地域」を一つの国にまとめてしまい、後の内戦の原因となった。

またパレスチナでは、バルフォア宣言を信じたユダヤ人が移住を開始し、土地をめぐる衝突が頻発した。これが現在のパレスチナ問題の直接的な起点である。

1930年頃の中東の姿

サウジアラビアの台頭
アラビア半島ではイブン・サウードが勢力を拡大し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。
イラクの形式的独立
イギリスは反発の強さから、1932年にイラクを形式的に独立させた。しかし軍事・外交の実権はイギリスが握り続けた。
パレスチナの緊張激化
ユダヤ人移住が加速し、アラブ人との対立は爆発寸前の状態に達していた。

まとめ

1900年〜1930年の30年間は、「欧州列強の身勝手な外交によって、現代の中東の歪な構造が決定づけられた時代」である。