1900年から1930年にかけてのインド(当時は現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ミャンマーを含む「イギリス領インド帝国」)は、民族運動が爆発的に高まり、イギリスの植民地支配が大きく揺らいだ激動の30年間である。
イギリスの支配はインド一国に留まらず、南アジア一帯に及んでいた。
1900年までの経緯:不満が蓄積した理由
18世紀以降、イギリス(東インド会社)は軍事力と外交工作でインド支配を拡大し、1857年の「インド大反乱」を契機にイギリス王室による直接統治が始まった。
イギリスはインドを「王冠の宝石」と呼び、徹底的に搾取した。鉄道やインフラは整備されたが、それはインドの富(綿花・穀物など)を効率的に輸送するためのものであり、インド人の生活向上にはほとんど寄与しなかった。この状況に対し、知識人層を中心に「自国を取り戻す」という意識が芽生え始めていた。
インドの歴史タイムライン(1900〜1930年)
ベンガル分割令(1905年)
カーゾン総督は、反英運動が盛んだったベンガル地方を「ヒンドゥー多数の西」と「イスラム多数の東」に分割した。目的は宗教対立を煽り、インド人の団結を阻むことにあった。
インド国民会議の急進化とムスリム連盟の成立(1906年)
分割令への反発から、国民会議は「ボイコット・スワデーシ・スワラージ・民族教育」の4綱領を採択。
一方イギリスはイスラム教徒を懐柔し、親英的な「全インド・ムスリム連盟」を結成させ、宗教的分断を深めた。
第一次世界大戦と約束の反故(1914〜1918年)
イギリスは「戦後に自治を認める」と約束し、インドは100万人以上の兵士と資金を提供した。しかし戦後、イギリスはこの約束を反故にし、インド人の怒りが増幅した。
ローラット法とアムリットサル虐殺(1919年)
裁判なしで逮捕できる治安法(ローラット法)が制定され、抗議集会に集まった非武装の群衆にイギリス軍が発砲。数百〜千人規模の死者が出る惨劇となり、反英感情は頂点に達した。
ガンディーの登場と第1次非暴力・不服従運動(1920〜1922年)
南アフリカから帰国したガンディーが国民会議の指導者となり、「サティヤーグラハ(非暴力・不服従)」を開始。政府機関のボイコットや塩税への抗議など、大衆を巻き込む全国運動へ発展した。
プーナ宣言と「塩の行進」(1929〜1930年)
1929年末、国民会議は完全独立(プールナ・スワラージ)を宣言。
1930年、ガンディーは塩の専売制に抗議し、海まで約390kmを歩く「塩の行進」を敢行。これが第2次非暴力・不服従運動の引き金となり、世界中にインド独立運動が報道された。
同時期の周辺国家の動き
1 アフガニスタン(北西)
19世紀からイギリスとロシアの勢力争い(グレート・ゲーム)の舞台となり、イギリスの保護国化が進んでいた。
1919年、第三次アフガン戦争でアフガニスタンはイギリスに勝利し、完全独立を達成。これはインドの活動家たちを大いに鼓舞した。
2 チベット・中国(北)
イギリスは清朝の衰退を利用し、1903〜1904年にヤングハズバンド遠征を実施してラサを占領し、交易権を獲得した。
1911年の辛亥革命後、チベットは事実上の独立を宣言。イギリスはインドとの国境(マクマホンライン)を巡って暗躍し、後の印中紛争の火種となった。
3 ミャンマー(ビルマ / 東)
当時は独立国ではなく、イギリス領インド帝国の一部として統治されていた。
1920年代にはインドの運動に呼応し、ビルマでも仏教徒を中心とした民族主義運動(タキン党など)が活発化した。
1930年時点のまとめ
1930年の「塩の行進」により、インド独立運動は知識人中心の政治運動から、農民・労働者・女性を含む国民的運動へと完全に変貌した。
イギリスは武力で抑え込むことが不可能だと悟り、1930年からロンドンで「英印円卓会議」を開催し、インド側と交渉の席につかざるを得なくなった。これが1947年の独立へと繋がる重要な転換点となった。
イギリスが深めたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分断
1 ベンガル分割令(1905年)
宗教構成を意図的に操作し、ヒンドゥーとイスラムの対立を煽った。
2 全インド・ムスリム連盟の育成(1906年)
イギリスはイスラム指導者に「ヒンドゥー政権の脅威」を吹き込み、宗教対立の政治構図を作り上げた。
3 分離選挙制(1909年)
宗教別の議席枠を設け、宗教対立を制度的に固定化した。
これにより「インド人」という共通意識が弱まり、「ヒンドゥー教徒」「イスラム教徒」という帰属意識が強制的に植え付けられた。
4 1920年代の暴動
地方選挙が本格化すると、宗教共同体間の暴動が頻発。イギリスは「統治をやめれば殺し合いが起きる」と主張し、支配の正当化に利用した。
結末:1947年の印パ分離独立
イギリスが植え付けた分断は修復不能となり、独立の瞬間にインドは「インド」と「パキスタン」に分裂した。
突貫で引かれた国境線(ラドクリフ・ライン)は現在まで紛争の火種として残り続けている。
【kisono1930における設定】
マナ・クレメンタイン・シンクレアがインド出身である。