1928年、上海・紅江区。
幸福路には、いつも右袖に腕を通さず、片方の肩だけをそびやかして歩く男がいた。袖を通さない右手は常にズボンのポケットの中にあり、何かを強く握り締めているようだ。

男は身長2メートルを超える巨体で、衣服の上からでもわかるほど筋肉が隆々としていた。
鋭い目つきで周囲を睨み回しているため、誰もその男に近づこうとはしなかった。幸福食堂で食事をするときも、男は不器用そうに左手で箸を使い、右手はポケットの中で何かを握りしめたままだった。
街の人々は「きっと右手で拳銃を握っているに違いない。命を狙われているから周りを警戒しているんだ」と噂し合っていた。
幸福食堂のオーナーVV(薇薇)は
「でもあの男、見かけほど悪い奴じゃないわよ」という。
VVの同級生で幸福食堂の共同経営者MG(マリゴールド)は
「なんで分かるのよ?」
VV「この前見たのよ。男の子がうっかりあの男にぶつかっちゃって泣き出したんだけど、男はじっと男の子を見ているだけで何も言わなかったわ」
MG「それで良い奴だって言えるの?」
VV「だって、あのとき男の額には冷や汗が浮かんでいたもの。
きっと男の子に『大丈夫かい?』って優しく笑いかけるのが下手だっただけよ」
MG「考えすぎでしょ。ただ暑かっただけじゃないの?」
ある日、幸福路の店で青幣(せいへい)の若者たちが騒ぎを起こしていた。
紅江区の青幣は商業組合であり、地域通貨を発行して街を護る組織でもあったが、血の気の多い若者も多かった。
今回は商店主との間で行き違いがあったようだ。
店主「だから謝っているでしょう! 預かった“青幣”を一束、数え間違えただけなんです!」
若い男「言い訳で済むかよ。この落とし前をどうしてくれるんだ!」
そこへ、例の片袖の男が通りかかる。
「……おい、お前たち」 声をかけられた若者たちが振り返り、息をのんだ。
若者「な、なんだお前は……」
片袖「いい加減にしろ。やめないと……」
男がボソボソと呟いている間に、恐れをなした若者たちはすでに逃げ去っていた。
店の主人は恐怖と驚きで立ち尽くしている。
片袖「……これからは、気をつけたほうがいい」
数日後、片袖の男が幸福食堂で食事をしていると、一人の男がそっと隣に腰掛けた。情報屋のチンパンだ。
「兄貴、久しぶりだな」
片袖「……チンパンか」
チンパン「その腕、あのとき撃たれたときのままなのか……?」
片袖「ああ。もう動かん」
片袖の男が店を出ると、しばらくして外がなにやら騒がしくなった。
VVが「なにかしら?」と表へ出ると、青幣の連中が片袖の男を取り囲んでいた。
チンパンも店から出たが、ただ物陰からその様子を伺っている。
青幣1「この前はよくも恥をかかせてくれたな! 聞いたぞ、お前の右腕は銃で撃たれて動かないそうじゃないか!」
男は懐から拳銃を取り出した。
片袖「やめておけ。おもちゃじゃないんだ」
青幣1「うるせえ! おい、やっちまえ!」
数人の男が殴りかかるが、巨体はビクともしない。
影から見ていたVVがチンパンに囁く。
VV「加勢しないの?」
チンパン「俺は頭脳労働専門でね」
MG「ただ怖気づいてるだけでしょ」
チンパン「俺の勘が『必要ない』と言っているんだ」
業を煮やした男が、ついに拳銃の引き金を引いた。
銃声が響き、片袖の男は一瞬ぐらついたものの倒れず、素早い動きで男から拳銃を奪い取った。
そして、残った左手と膝を使い、金属製の銃身を力任せにバキリと折り曲げて捨てた。
化け物のような腕力を見せつけられた青幣の男たちは、悲鳴を上げて逃げ出した。
VV「あの人、銃で撃たれても平気じゃない。なんで腕を怪我なんてしたのかしら」
チンパンは静かに語り始めた。
「兄貴の名前は王孔(ワンコン)。どこから来たのかは知らないが、3年前までは俺たち青幣の仲間だった」
VV「何かあったのね?」
チンパン「3年前、街に入り込んできた悪質組織のアジトを襲ったときのことだ。
兄貴は相手の組長の幼い子供を庇って、至近距離から散弾銃で何度も撃たれた。
それでも子供を抱きかかえたまま、一歩も引かなかったんだ」
チンパン「相手の組は潰れたが、兄貴は組織のやり方に愛想を尽かして青幣を抜けたのさ……」
VV「私、あの人に惚れちゃったわ。これから幸福食堂に来るたび、餃子を3皿ずつサービスするわね」
チンパン「俺には1皿しかサービスしてくれないのに?」
MG「体の大きさが違うでしょ」
数日後、王孔が店にやってくると、VVは黙って餃子を3皿差し出した。
王孔「……これは?」
VV「いつもありがとう。あなたのおかげで、幸福路は今日も平和よ」
王孔はいぶかしげな顔をしたが、やがて不器用に口元をゆるめた。
「……そうか。俺も少しは、役に立っているんだな」
MG「今日は男の子も一緒なのね。息子さん?」
王孔「息子じゃないが……息子のようなものだ。3年前から一緒に暮らしている」
王孔の隣で、小さな男の子が嬉しそうに餃子を頬張っていた。
【2026-08-28/260423-2】
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