茶話10 ドイツ領事館の御用達

1928年、上海・幸福路。
ヘイゼルナット嬢誘拐事件の後、幸福路には平穏が戻り、幸福商会の「カフェ幸福1号店」はいつも通り賑やかに営業を続けていた。
しかしその陰で、堂々と「VV(薇薇)」と名乗ったあの少女の存在は、ドイツ領事館、本国諜報機関、そして旧王党派のすべてに強烈な爪痕を残していた。ドイツ領事館の管理地に真正面から乗り込み、見事な手際でエリサを奪還した一団の首領として、彼女には「恐ろしい娘 兼 凄腕のスパイ」という評価が完全に定着してしまったのだ。
ドイツの各機関が本国へ送った報告書では、彼女は国際共通の英語で、コードネーム『Violent Volatile(ヴィオレント・ヴォラティール)』と記されるようになっていた。この最高警戒情報に関しては、諜報部も旧王党派も領事館も、固く手を取り合って情報共有していた。

ベルリンから派遣されて間もない諜報員のスパイAは、本部のオフィスで冷や汗を流しながら、同僚のスパイBに尋ねていた。
スパイA「この前の上海領事館の事件の首領である謎の少女……コードネーム『Violent Volatile』というのは、一体どういう意味なんだ?」
スパイB「直訳すれば『凶暴な揮発物』だ。どこにでも音もなく染み込んでいって、前触れもなくすべてを爆破する危険な代物さ……触れるだけで爆破スイッチが入る、歩く人間兵器だと思えばいい」
スパイAは(上海にそんな物捜な怪物が潜んでいるのか……)と、背筋に冷たいものを感じて身震いをした。

その日の午後、スパイAは偽装任務の一環として、お洒落なカフェ「幸福1号店」に潜入していた。
彼はコーヒーを注文し、席についてふとカウンターの中に立つ少女に目を留める。
(そういえば、この店の若い女性オーナーも、自分で『VV』と名乗っていたな……)
“中国系で女学校生の制服を着た、長身で黒髪の、驚くほど目鼻立ちの整った美しい少女。”
スパイAはすぐに首を振って自分の妄想を打ち消した。
(まさかな。あの恐ろしいレポートの主が、こんな可憐な女子学生であるはずがない……)

その時、店の裏口から体格のいい男が入ってきて、カウンターのVVに大声で声をかけた。
男「おい、VV! 例の『機関箱(机关箱/ジーグアン・シァン)』を100個持ってきたぞ! どこに置く?」
『機関箱(机关箱/ジーグアン・シァン)』はびっくり箱の意味だが、男はそれに引っかけて鶏肉の入った箱を『鶏関箱』だと言って持ってきたのだ。
VV「あぁ、ありがと。ひとまず2階に上げておいて!」

しかし、中国語を勉強中のスパイAの耳には、それが恐ろしい「機関槍(机关枪/ジーグアンチアン=マシンガン)」という単語に聞こえてしまったのだ。
(マ、マシンガンを100丁……!? それを女子学生が、お茶の葉でも片付けるような軽さで2階へ運べと言ったのか……!?)
スパイAを持つコーヒーカップが、ガタガタと激しく震え始めた。

そこへ、店内の様子を見て回っていたVVが、何気なくスパイAのテーブルへと近づいてきた。
VV「あら、あなたドイツの方ね? 洋服の仕立てがすごくドイツ風だわ」
スパイAの心臓が跳ね上がった。
(なぜだ! 変装は完璧なはずなのに、一瞬で見破られた!?)
あまりの恐怖に震えが止まらなくなり、カップからコーヒーが溢れそうになる。それを見たVVは、親切心から彼の耳元に顔を寄せ、そっと囁いた。
VV「あなた、危ないわよ。気をつけなさいね」
(※コーヒーがこぼれて火傷するから気をつけて、という意味)

しかし、恐怖に支配されたスパイAの脳内では、別の意味に翻訳されていた。
スパイA(お、俺の正体も身元もすべてバレている!『お前は危ない、気をつけろ(命の保証はない)』という死の宣告だ……!!)
パニック寸前のスパイAが店内を見渡すと、窓際の席に、見覚えのある男が座っているのが見えた。
(あ、あれは我がドイツの裏ビジネスに協力してくれているエージェントのレオンさんだ! レオンさんなら、この化け物から俺を助けてくれるかもしれない……!)

ところが、肝心のレオンのところへも、VVは楽しそうに歩み寄って会話を始めてしまった。
レオンは、自分の方を生死を懸けて悲壮な目で見つめてくるスパイAに気づき、(どこかで見た顔の男だな……)と首を傾げている。
VV「ねえレオン、今度、日本軍の仕事が入ったんだけど、手伝ってもらえる?」
レオン「ん? ああ、あれか? 今回の作戦、何て言ったっけ?さっきの『機関箱』もそれに使うのか?」
VV「そうそう、“ボンオドリ”の目玉なのよ。100本なんて、きっとみんなびっくりするわ!」

ドイツ人のスパイAに、日本の伝統文化である「盆踊り」などという単語が理解できるはずもなかった。
(ボ、ボンオドリ?……機関銃100丁!? きっと極秘の暗殺作戦か何かに違いない! レオンさんまで彼女の仲間だったのか……!?)
スパイAは完全に絶望した。
(ここは触れてはいけない、悪魔の巣窟だったんだ。俺はもう、完全に目をつけられている……)

テーブル越しに、レオンがVVに小声で尋ねた。
レオン「おいVV、あそこでガタガタ震えながらこっちを見てる男は誰だ?」
VV「うーん、たぶんドイツの諜報部の人。さっきから私のことをじっと見てるから、この前の事件の時に私の顔を見て知ってるのかも」
レオン「それなら、変な気を起こさないように釘を刺しておいた方がいいんじゃないか?」
VV「そうね」

VVはスパイAの方を振り返り、牽制のつもりで「にっこり」と極上の笑顔を投げかけた。
その瞬間、スパイAの限界を迎えた手から、コーヒーカップが床へと派手に滑り落ちた。

その日の夕方、スパイAは命からがら本部に逃げ帰り、極秘のレポートを提出した。これにより、本部から公式に
「カフェ幸福1号店およびVVには、いかなる理由があろうとも一切関わるな」
というアンタッチャブル(接触禁止)の指令が下された。

しかし、この過剰な恐れが、逆に奇妙な結果を生むことになる。
「あの『凶暴な揮発物(VV)』を敵に回したら上海のドイツ機関は壊滅する。
だが、莫大な資金を払ってビジネスとして『依頼』すれば、これ以上なく確実に裏仕事をこなしてくれる最強の機関になるはずだ」と、
ベルリンの本部が斜め上の決断を下したのだ。

こうして、触れてはいけない危険地帯だったはずの幸福1号店は、不思議なことに、ドイツ側から高額な諜報や裏仕事の依頼が次々と舞い込む、実質的な「ドイツ領事館の御用達」として重宝されるようになっていくのだった。

【2026-10-08/2601005】

☜茶話9 VVの人の信じ方